劉衛流の由来

劉龍公の中国拳法と中国兵法の正統を継承する古法の総合武道が、劉衛流空手道・古武道です。
大清の宣宗皇帝の道光年間に那覇市久米村の仲井間筑登親雲上憲里によって仲井間家に伝来しました。
始祖・劉龍公の「劉」と2代目・憲里の唐手名である衛 克達の「衛」をとって「劉衛流」としました。一子相伝であった劉衛流でしたが、4代目 憲孝に特別に入門を許されたのが、世界チャンピオンの佐久本嗣男先生です。

仲井間筑登親雲上憲里について

憲里は、中国系の子孫の居住地であった久米村(現在の那覇市久米町)人士の嗜みとして幼少の頃から修文錬武の道を歩み、1839年弱冠19歳で福州に留学、かつての冊封使の護衛武官某の紹介で、劉龍公に入門しました。
武芸はもちろんのこと、「武将」育成のための軍学から占星学といった教育を受け朝鍛夕鍛の功を積みました。
6年間の修養を経て、25歳で法伝の印可を許され、"武備志""評論志""養生法""刻付""拳勇心法"等の伝書を授けられました。
その後、約一年間、武者修行を兼ねて見聞を広めるべく福建、廣東地方から北京地方まで巡遊、各種の古武器も収集し26歳で帰琉しました。

帰琉後の憲里について

時は、1860年代、幕末を迎えようとしており、清国から武芸を学んできたことを口外できず、また、中国武術は秘密主義が強いため、軽々しく弟子をとったり、流派を名乗ることも禁じられていました。





憲里の遺した家訓

「武力は心の支え、身を守り、みだりに発動すべきものでもなく、軽々しく伝人に伝授してよいものでもない。門外不出、一子祖伝にせよ」
以来百数十年、仲井間家は劉龍公を尊祟し、憲里の残した家訓をかたくなに守り続けてきました。