始祖 劉龍公(道光年間)
清朝武官養成所首席師範
仲井間筑登親雲上憲里について
2代 仲井間 憲里(1819/12/11~1879/3/14)唐名:衛 克達
中国から”劉の技”を持ち帰った人物。那覇市久米村に生まれ、出自が正しく、裕福な家庭に育ちました。武術だけではなく文才にも優れ、漢語だけでなく、宣教師・ベッテルハイムから英語を学ぶなど、語学に長けていました。 武術にのめり込み、財産をすべて使ってしまった豪快な一面を持っていました。身長は180センチを超え、胆力を持った人物でした
3代 仲井間 憲忠(1856/8/10~1953/9/20)唐名:衛 武仁
体格は160センチにも満たなかったが、鉄筋に動物の皮を巻いたような骨格で、胆力も凄まじく、性格も激しかったといいます。 ある時、ハブに噛まれた応急処置として、鎌でその部分を切り取り、一命を取り止めたというエピソードを持ちます。 また、若い頃、津嘉山の鎌の名手(チカザン・イラナグヮーの異名を持つ)から挑戦を受けた憲忠は、棒に薄い鉄板を巻き、勝負に挑んだ等、30歳までは血気盛んな一面がありました。
4代 仲井間 憲孝(1911/12/23~1989/9/21)唐名:衛 芳徳
幼少の頃から、父より劉衛流の技を厳しくしこまれ、37歳で皆伝を許されます。
沖縄県師範学校在学中、剣道を学び始め、教士7段となります。 「武道家と言うものは、まず人であることから始めよ」が口癖であり、礼を尽くすこと、人としてあるべき姿を説いていました。 60歳にして一子相伝門外不出の空手・古武道を公開にふみきりました。 
 5代 仲井間 憲児(1934/5/4)
5代継承者として道統の形の保存に務め、琉球大学を退官。自らも居合道7段教士・杖道5段。
佐久本嗣男
一子相伝であった劉衛流でしたが、4代目 憲孝に特別に入門を許されたのが、世界チャンピオンの佐久本嗣男先生です。